【アラベスク】メニューへ戻る 第13章【夢と希望と未来】目次へ 各章の簡単なあらすじへ 登場人物紹介の表示(別窓)

前のお話へ戻る 次のお話へ進む







【アラベスク】  第13章 夢と希望と未来



第2節 進路相談 [13]




 大通りで街灯も煌々(こうこう)としていたが、時間帯が遅かったため人通りは少なかった。路地に入ってしまえば人影はない。それに相手は手馴れていた。悲鳴をあげる暇すら与えなかった。
 それでも二人は抵抗した。三対二。年下のわりには先輩よりも少し背の高かった詩織は、二人の男に押さえつけられていた。男一人を相手にしていた先輩の方は、わけもわからずメチャクチャに暴れまわり、少女の鞄が少年の後頭部を直撃した。怯んだ隙に逃げ出した。
 後輩を見捨てるつもりはなかった。その証拠に、彼女は一度立ち止まって振り返った。
「詩織ちゃんっ!」
 だが、頭を殴られて怒り狂う少年の怒号に、少女は再び背を向けて走り出した。
「すぐに助けを呼んでくるからっ!」
 大通りへと飛び出した。少年はあっさりと追うのを諦め、すぐに引き返してきた。そうして詩織を三人がかりで連れ去った。
 保護されたのは翌朝のことだった。捉えられた現場から数キロ離れていた河川敷。倒れこんではいたが寝てはいなかったし、気を失ってもいなかった。ただ目を大きく見開いたまま、呆然とうつ伏せに倒れこんでいた。発見したジョギング途中の女性は、見つけた時には死んでいるのかと思ったらしい。それほどに詩織の顔は蒼白していた。
 犯人はほどなく見つかった。本当は犯した後に殺すつもりだったらしいが、詩織が必死に逃げ出したのだと言う。
 保護された後もショックから立ち直れず、詩織はそのまま自宅へ(こも)りきった。地元ではちょっとした話題になった。
 このままずっと家に引き篭もっていたい。世間の好奇な視線を想像すると、詩織はとても学校へ行く気にはなれなかった。だが、真面目な詩織は健気(けなげ)にも自分を奮い立たせた。
 このままではいけない。
 日に何度も部屋へ尋ねてきてくれる母の優しい言葉もあり、詩織の気持ちは徐々に落ち着いていった。
 今の学校に通うのはやはり抵抗があるが、転校して別の学校に通って、なんとか高校だけでも卒業しよう。
 それとも、やはり今の学校へ通うように言われるだろうか? 難関高校で受験にも苦労した。がんばって通うように言われるかもしれない。でも、それならそれでいい。せっかく親が受験させてくれて通わせてくれた学校だ。あと1年ちょっとだ。私が頑張ればそれでいいんだ。
 気持ちを整理し、学校へ行こうと決心し、それを両親へ告げた。ところが、そんな詩織へ意外な言葉が返ってきた。
「学校? そんなものは行かなくていい」
「え?」
「もう退学届は出してある」
 絶句した。ワケがわからなかった。自分がいつ高校を退学したというのだ。そんな事は言われていない。
 唖然とする娘へ向かって、父はブズリと眉を(ひそ)める。
「学校へなぞ通って我が家の人間が羞恥に晒されるなど、言語道断。お前が人目に晒されれば、それだけで我が家の家名も恥に晒されるのだぞ。それなのに学校へ通うだなどと。だいたい、なんでこんな事になるんだ。だから家庭教師を雇えと言ったんだ。それを何だ、他の生徒とも触れ合いを持たせなければ社会生活を円滑におくれる人間には育たないだなどと言って、高校やら塾などに放り込みおってからに」
 少し離れた場所に(たたず)む母親を睨む。
「しかもバスなどといった公共交通を利用させたりするからこのような面倒事が起こるのだ。無意味に庶民風情と馴れ合って何の得になる? どうしてくれるのだっ!」
 怒鳴られ、母は身を竦めて無言で頭を下げた。
「とにかく、学校だと? 冗談じゃないっ!」
 何を考えているのだっ!
 そう叱咤する父親に、詩織は言葉も無かった。
「お前が外を出歩いてこれ以上我が家が笑いものになるのは御免だ。学校へ行く? 冗談じゃない。外へ出る事も当分は許さん」
「そ、そうですか」
 詩織の家は古くからの資産家だ。父親は、今では珍しいほど厳格な存在だった。詩織には歯向かう手立てなどなかった。
 父親の言っている意味の半分も理解できぬまま詩織は頷き、そうしてふと口を開いた。
「あの、犯人はどうなったのでしょうか?」
「犯人?」
 父親はさらに表情を厳しくする。
「そんなものは知らん」
「あの、でも捕まったのでしょう?」
「ああ、そうだ。馬鹿な警察が捕まえおった」
「馬鹿な?」
 警察が捕まえた?
 まるで犯人を捕まえた警察の方に非があるとでも言いたげな口調。目を丸くする娘に、父親は苦々しく口を開く。
「警察め、捕まえて起訴するだなどとほざきおって。冗談じゃない。すぐに釈放させたわい」
「しゃ」
 釈放?
「当たり前だ。起訴などされて裁判にでもなってみろ。それこそ世間の話題の的だ。いつまでたっても我が家の娘が羞恥に晒されたという話が世間から消えん。ダラダラと家名を傷つけられる事になる」
 もう何も言えなかった。
 詩織は一人で過ごすようになった。だがそれは、自ら望んでの事ではない。外に出たくても出られない。自分の周囲は使用人がそれとなく監視している。詩織は、我が家でありながら監視の目の中で過ごさなければならなくなった。
 そんな日々が経つうちに、やがて体調の変化が訪れる。妊娠していた。
 当然のごとく父親は中絶を勧めた。詩織もそのつもりだった。だが、父親の一言が胸に刺さった。
「多少母体に負担が掛かってもかまわん。早く殺せ」
 父親から高校退学を言い渡される前から、体調は優れなかった。きっと事件のショックからだろうと、詩織自身も周囲も思っていた。さらに詩織は、父親との会話の後は自室で一日を過ごし、親とは食事の時以外は顔を合わさなかった。ゆえに詩織の体調の変化に気付くのが遅れた。
 使用人が気を利かせて伝えても、父親はなかなか話を聞こうとはしなかった。病院などへ連れて行って娘が公衆の面前に晒されるのを何より嫌がったのだ。お腹が出てきたのを見兼ねた使用人が医師を家へ呼び、ようやく妊娠が発覚した。
 殺す。
 その言葉を聞いた夜、詩織はまったく眠れなかった。
 自分は、一つの命を殺そうとしている。

「多少母体に負担が掛かってもかまわん」

 胎児が成長すればするほど中絶は難しくなると聞いた事がある。下腹部が目立ち始めたらもう遅いのかもしれない。
 ひょっとしたら、自分も死ぬのかもしれない。
 その夜のうちに家を抜け出した。だが、久しぶりの外出と重い身体ではそう遠くへは行けない。詩織は近くの公衆電話から綾子へ電話を掛けた。



「びっくりしたわ」
 水割りを飲みながら、綾子は思い出すようにぼんやりと言う。
「最初に電話をされても、誰だかわからなかった。姿を見た時にはもう疲れ果てていて、すぐに医者へ連れて行こうとしたんだけど、嫌だって言い張って」



「お医者さんになんか行ったら、絶対に家へ連れ戻される。そうしたら私はもう二度と家からは出られないかもしれない」
「でも、だからと言ってこのままってワケにはいかないでしょう? あなたにもしもの事があったら、私たちだって困るわ」
 当時勤めていた埼玉の店の奥で、綾子は声を潜めながら言う。そんな相手に、詩織は一度ゴクリと唾を飲み込んでから、低い声で囁いた。
(おおやけ)にはならないお医者さんを、紹介してください」







あなたが現在お読みになっているのは、第13章【夢と希望と未来】第2節【進路相談】です。
前のお話へ戻る 次のお話へ進む

【アラベスク】メニューへ戻る 第13章【夢と希望と未来】目次へ 各章の簡単なあらすじへ 登場人物紹介の表示(別窓)